福田美術館前には「謡曲 小督の旧跡」と書かれた看板が佇む。
どうやら当地は謡曲「小督」に登場する主人公の小督(こごう)の屋敷があった伝承の場所らしい。
尚、謡曲 小督については下記ページを素敵にチェック💘
謡曲「小督」の旧跡(小督塚)|嵐山 福田美術館前
1691年(元禄四年)4月18日から5月4日まで、かの松尾芭蕉は嵯峨野(嵐山)に逗留し、その間に「嵯峨日記」を素敵に書き上げた。
同氏の日記(嵯峨日記)によると、小督が隠遁していた館が当時、嵯峨野に三ヶ所もあったらしく、どれが伝承にある小督の館か分からなかったとか。
そこで芭蕉は古文にあった、源静香‥ではなく源仲国!は、「駒留の橋」と呼ばれた橋上で小督の琴音を耳にし、駒(馬)を留めたという一文を想起させた。
その伝承の橋が現在の車折神社の頓宮あたりにあったらしく(現在、再興された橋がある)、あまつさえ、当該、橋から西に一町(約100メートル)のところに小督の館があって、唯一、伝承と合致したことから、当地を小督が隠遁した館跡と位置付けたとか。
それゆえ現在、当地は「謡曲 小督の旧跡」の伝承地とされ、「小督塚」あるいは「小督の墓」とも呼ばれる。
【ピヨ🐣法輪寺にも「小督経塚」がある?!】
渡月橋向こうの嵯峨野 法輪寺の本堂裏にも「小督経塚」と呼ばれる小督の墓があるとか。
ただ、当寺では、あくまでも伝承を域を出ないとして事実関係が判然としないため、公にはしていないらしい)
「駒留の橋(琴聴橋)」はもう一つある?!
実は、前述の源 仲国が琴音を聞いた橋が近くにもう一つあることはあまり知られていない。
その橋は意外にも車折神社 頓宮の大堰川(保津川)を挟んだ向かい側、モンキーパーク手前の沿岸道にある。
片方だけに親柱が僅かに見える。(見えづらいが、親柱に「こまとめはし(駒留橋)」の陰刻がある)
もう一つの駒留の橋(琴聴橋)の場所
謡曲「小督」の旧跡(小督塚)の歴史
芭蕉は1691年(元禄四年)4月19日の午半、「松尾の竹の中に小督屋敷と云有り」とし、「うきふしや竹の子となる人の果て」「嵐山藪の茂りや風の筋」という句を詠んだ。
「うきふしや竹の子となる人の果て」の意味
どうやら優雅な貴族の暮らしをしていた小督の墓は竹薮の中にあったらしく、最期はこのような竹藪の中で筍(タケノコ)に成り果てたのか。人の一生とは空しきや。
「嵐山藪の茂りや風の筋」の意味
嵯峨野は竹薮が最近の陰毛級にたくましくフサフサと生い茂り、風が通ると笹が揺れ動く。
調べたところ、当地にはかつて「小督庵」という料亭があったらしいが、浪花千栄子(「おちょやん」のモデル)が「竹生(ちくぶ)」という旅館を建てて、養女とともに経営したとか。(当時の当地は天龍寺境内だったらしい)
しかしながら、当時、小督の墓とは分からぬほどに荒廃していたらしく、見るにも忍びないということで化野寺から塔を一基、貰い受けて供養塔として復興したのが現在の小督塚とか。
それ以前は、正岡子規・高浜虚子・谷崎潤一郎・芥川龍之介らの文人らも訪れた、江戸時代より名旅館と謳われた三間屋(料亭旅館「三軒家」のこと)があった。ちなみに三軒とは、雪・月・花という3軒の料亭の総称らしい。
この三間屋の隣に竹藪があり、その中に荒廃した小督の墓があったが、せめてもの目印として桜を二本植えて、後に「小督桜」と呼ばれるようになったとか。
ところで浪花千栄子が建てた旅館はどうなったかというと、当人の逝去後、廃業したらしく、星霜経て2019年10月1日に現在の私設・福田美術館が創立され、現在に到る。
現地の案内板の内容
謡曲「小督」の旧跡
小督局は、桜町中納言 藤原成範の女で、宮中で美人の誉れ高く、高倉天皇(第八〇代,在位 一一六八 〜 八〇)の寵愛を一身に集めていた。
しかし、平清盛の女、徳子(建礼門院)が中宮であったため、平家の圧迫をおそれて、この地、嵯峨野に身を隠した。
その時の仮住居が、この「小督塚」辺りであったといわれている。謡曲「小督」は、天皇の命により、小督局を探しに当地を訪れた弾正大部 源仲国が、秋霧の間に微かに聴える琴の調べを便りに、遂に局の居所を探し得たという物語である。
今でも、渡月橋の北詰にある石橋は「琴聴橋」とも「駒留橋」とも呼ばれ、仲国が想夫恋の曲を聴いたところと伝えられている。
京都謡曲史跡保存会
謡曲「小督」の旧跡の場所と行き方
天龍寺総門から大堰川(保津川)沿岸道を‥”精神”が病むほどに”西進”、徒歩約05分、渡月橋から‥やっぱり”精神”が病むほどに”西進”、徒歩約03分。