天龍寺「勅使門」【京都府指定文化財】
京都府指定文化財「勅使門」について、その詳細をチェックしてみましょう。
勅使門は、天龍寺の寺内でも最古の建物と言われており、天龍寺を訪れた際には必ず見ておきたい建造物の1つです。
創建年
- 推定1596~1615年(慶長元年~慶長20年)
『中井家文書』によれば1613年(慶長18年)
移築年
- 1641年(寛永18年)
- 正式には「旧慶長内裏御門」と呼ばれる。元々天龍寺ではなく、慶長時代の御所「明照院」の御門を現在の場所に移築したもの
建築様式(造り)
- 切妻造
- 総欅造
- 四脚門
- 付・築地塀(土塀)2棟
- 総延長11.8m
- 親柱・円柱/控柱・几帳面取の角柱
屋根の造り
- 門部分・銅板葺(創建当初は檜皮葺)/築地塀部分:本瓦葺
大きさ
- 高さ(棟高):9.995m
- 横幅:柱間6.3m/築地塀部各11.8m
- 奥行き(梁行):5.15m
- 平面積:32.445平米
京都府指定文化財指定年月日
- 1988年(昭和63年)4月15日
読み方
勅使門(ちょくしもん)
「勅使門」とは?
勅使門は、天龍寺だけではなく、その他の寺院にも複数存在しています。京都で有名な勅使門は、天龍寺の他にも、南禅寺、妙心寺、相国寺、大徳寺などに勅使門があります。
勅使門とは、天皇が寺院を訪れた時や、勅使(天皇のお使い)が訪れた時にだけ開かれ、天皇関係の重要人物だけが通れる特別な門のことを指します。
天龍寺 勅使門の歴史
勅使門は天龍寺境内で最古の建物
天龍寺「勅使門」は、天龍寺境内の中でも最古の建造物であると伝えられています。
天龍寺は、応仁の乱(1467年~1477年)、そしてその後の禁門の変(別名:蛤御門の変。1864年)で、境内の多くが一度以上焼失しています。
火災回数 | 火災発生日 | 火災の影響 | 中門焼失の可否 |
1度目の火災 | 1356年〜1361年 | 伽藍焼亡。 | ※勅使門焼亡※ |
2度目の火災 | 1362年〜貞治6年(1367年) | 伽藍焼亡。 | ※勅使門焼亡※ |
3度目の火災 | 1368年〜1375年 | 仏殿、法堂、三門などが焼失。 | ※勅使門焼亡※ |
4度目の火災 | 1379年〜1381年 | 東廊、文庫、庫裏などが焼失。 | ※勅使門焼亡※ |
5度目の火災 | 1444年〜1449年 | 伽藍焼亡。 | ※勅使門焼亡※ |
6度目の火災 | 1467年〜1469年 | 応仁の乱により伽藍焼亡。 | ※勅使門焼亡※ |
7度目の火災 | 1804年〜1818年 | 伽藍焼亡。 | ※勅使門焼亡※ |
8度目の火災 | 元治元年(1864年)〜1865年 | 禁門の変(蛤御門の変)にて伽藍焼亡。 |
応仁の乱では境内悉く灰燼に帰したが、1864年(元治元年)の禁門の変(長州藩と幕府の戦争/蛤御門の変とも)では、境内悉く炎上した。
現在残っている伽藍の建造物も、そのほとんどが明治時代以降に再建されたもの。
勅使門の前身
御所内裏(明照院)の御門
そんな中、勅使門は慶長年間に内裏の御門として建てられ、寛永年間に天龍寺に移築されて勅使門となりました。(1641年(寛永18年)に移築されたとも)
この様子は現在京都府の管理下に置かれる古文書『中井家文書』に詳しく記され、勅使門の歴史を今に伝えています。
そして、1864年の禁門の変の際に戦火を免れたことで、建造当時の面影を現在に残す、天龍寺伽藍の中で最古の建物となったのです。
元・伏見城の門
上記、御所内裏(明照院)の御門は、もとは慶長年間(1596年 – 1615年)に建造された伏見城の門であり、後に御所内裏(明照院)へ移建されたもの。
だとすれば、現在の天龍寺勅使門は慶長年間(1596年 – 1615年/江戸時代)に建造された伏見城の門そのものということになる。
その伏見城の門には安土桃山様式の彫刻や部材が多用されており、これがまず、禅刹の門としては少し違和感を伴う理由となる。
勅使門の建築様式は安土桃山風
勅使門が創建された慶長年間(1596~1615年)は、安土桃山時代のいわば晩年にあたります。
天龍寺勅使門には、上部に竜虎などの雄々しく繊細な彫刻を見ることができます。
桃山時代の建築様式を今に伝える貴重な門なのです。
なお、勅使門の創建年について1624~1644年(寛永年間。江戸時代)としているサイトもあるようですが、この勅使門の創建については先述のとおり『中井家文書』に記述があること、建築様式が桃山時代のものであることから、ほぼ寛永年間のものではないと断定できるでしょう。
背面に安土桃山様式が濃く現る
両側の妻側を見れば桃山様式の特徴が濃く発揮されているのが分かる。
本柱間の扉上には左右にわたる大きな角材、冠木(かぶき)が長く突出しており、その上下には組物や横木の端を拳(こぶし)状の装飾彫刻である木鼻(きばな)を据える。
⬆️中央に大きく突出した冠木が見える
木鼻の輪郭の線様
このような木鼻の輪郭の線様や彫り方など安土桃山から江戸初期にあたりの特色がよく発揮されている。
中でも「しがみ彫り」とも呼ばれる鳥のくちばし状の彫刻などは、その典型例とされる。
蟇股
蟇股や、棟下に観られる大瓶束(たいへいづか)の左右に据え付けられた「笈形(おいがた)」の輪郭と彫刻、下方に幅広の平行線を彫った(眉とも)虹梁(こうりょう)の意匠なども安土桃山様式の典型例とされる。
⬆️勅使門の妻側。細部の彫刻、組物、虹梁、最近の鼻毛のような冠木の飛び出し具合など安土桃山様式を濃く示す。
なお、この勅使門と酷似した特徴を持つのが大徳寺の勅使門とされる。
現在みられる桃山様式の勅使門としては元・伏見城にあったと伝わる勅使門が最古の例となる。
禅刹の勅使門は四脚門が多い
この天龍寺含め、南禅寺、妙心寺、相国寺、大徳寺などの勅使門はすべて四脚門(よつあしもん)の門構えとなる。
扉の両横にそれぞれ本柱が配され、その前後に2本ずつ控え柱がある。一重の門というのが特徴でもある。
天龍寺の勅使門は境内のどこにあるの?
天龍寺の勅使門は、天龍寺の入口を入ってすぐ右手にあります。天龍寺の方丈や庭園から見ると真東の方向に当たります。
上のマップを見たときに、「勅使門 旧伏見城移築城門」とあるのが、勅使門の場所です。
え?天龍寺勅使門は伏見城の門なの?それとも御所の門なの?
冒頭から、天龍寺の勅使門は「慶長御所の門を移築した」とご紹介しています。
しかし、「旧伏見城移築城門」とも書かれているとおり、天龍寺の勅使門は「伏見城の城門であった」とも言われているのです。
豊臣秀吉が1592年(文禄元年)に建築した伏見城ですが、その後伏見城そのものが1597年(慶長2年)に移築となっています。
これは、1596年(文禄5年)に起きた「慶長伏見大地震」によって倒壊したためと伝えられています。
さらに、その後再建された伏見城は1600年(慶長5年)に「伏見城の戦い」で焼失しました。
徳川家康は関ヶ原の戦いの後、伏見城を再び再建しましたが、こうした経緯の中で、元々は伏見城にあった城門や建物は、全国各地へと移築されたと考えられています。
一例を挙げると、
- 江戸城伏見櫓(東京都)…伏見城の櫓
- 南禅寺金地院方丈(京都府)…伏見城の書院
- 御香宮神社拝殿(京都府)…伏見城の車寄
- 三渓園茶室春草盧(神奈川県)…伏見城の茶室
- 高台寺表門(京都府)…伏見城の城門
等々、等々……伏見城の移築によって現代に伝えられているものは枚挙に暇がなく、天龍寺の勅使門もその1つというわけなのです。
では、天龍寺の勅使門が「慶長御所からの移築」と記録されているのは、なぜなのか?
御所からの移築を記録している『中井家文書』は、大変貴重なもので、歴史資料として高い信憑性を誇っています。つまり『中井家文書』がウソをついている、ということではないでしょう。
考えられるのは、現在の「天龍寺勅使門」は、1度伏見城の城門として建築された後、伏見城から慶長御所へと移築されている可能性です。
伏見城の歴史から考えて、城門は「伏見城の城門としては」それほど長い間使われたわけではなく、状態が良かったのでしょう。
伏見城の城門が慶長御所に移築されたとして、慶長御所の建設は1613年(慶長18年)。『中井家文書』に記録されている年と一致します。
さらに、慶長御所が取り壊され、寛永御所が建築されたのが、1642年(寛永19年)。
『中井家文書』には1641年(寛永18年)に天龍寺に勅使門が移築されたと記録されており、これも一致することから考えて、「天龍寺勅使門は当初、伏見城の城門として建築され、その後、慶長御所の御門としておよそ28年間使われ、さらにその後天龍寺へと移築された」と考えるのが妥当でしょう。
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