天龍寺中門 (総門)の歴史(年表)や建築様式・特徴|【京都市指定文化財】

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天龍寺中門(総門) 【京都市指定文化財】

京都府指定文化財指定年月日:1988年(昭和六十三年)4月15日

中門の歴史

この天龍寺中門は慶長年間(1596年〜1615年)に造営されたとされる一方で「諸堂再建覚書記(天龍寺)」によると1602年(慶長七年)の造営とも記す。

火災回数 火災発生日 火災の影響 中門焼失の可否
1度目の火災 延文3年(1358年)正月4日 伽藍焼亡。 ※中門焼亡※
2度目の火災 貞治6年(1367年)3月29日 伽藍焼亡。 ※中門焼亡※
3度目の火災 応安6年(1373年)9月28日 仏殿、法堂、三門などが焼失。 ※中門焼亡※
4度目の火災 康暦2年(1380年)12月13日 東廊、文庫、庫裏などが焼失。
5度目の火災 文安4年(1447年)7月5日 伽藍焼亡。 ※中門焼亡※
6度目の火災 応仁2年(1468年)9月7日 応仁の乱により伽藍焼亡。 ※中門焼亡※
7度目の火災 文化12年(1815年)正月 伽藍焼亡。
8度目の火災 元治元年(1864年)7月20日 禁門の変(蛤御門の変)にて伽藍焼亡。

 現在の中門が1602年ならびに、慶長年間(1596年〜1615年)に造営(再建)されたという説の根拠となっているものは、上表の6度目(応仁の乱)以降、罹災していないという事実に基づくもの。オホっ

応仁の乱では境内悉く灰燼に帰したが、1864年(元治元年)の禁門の変(長州藩と幕府の戦争/蛤御門の変とも)では、境内悉く炎上するも、この中門は立地が功を奏したのか、罹災を免れた。

1988年(昭和六十三年)4月15日には、京都府指定文化財の指定を受けるに至る。




建築様式・特徴

屋根の造り

屋根は本を開いて覆い被せたような切妻造(きりつまづくり)。

瓦は丸瓦と平瓦を交互に積み上げた本瓦葺とする。

四脚門

禅宗様(唐様)を用いた四脚門となる。

構造は勅使門と酷似

この中門は南側に位置する勅使門と構造が似る。

中門は改造が多い

度重なる再建の末、新古の部材が混在し、柱に根接ぎもみられる。

この門の柱は古材とされ、天龍寺の悠久の歴史を物語る文化遺産ともなる。

異種の禅宗様

この中門の扉筋の本柱が棟下まで伸びており、和様の古式ではこの様式がみられない。これがこの門の特徴の1つとされる。

また、本柱・控え柱ともに柱下に礎盤(そはん/石や木で作られた柱と礎石の間に置かれる台)と称する繰型(くりかた)の礎石を用いず、これは禅宗様式の特徴とされる。

控え柱の礎盤は現在、前後の向きに地貫(じぬき/柱の根もと部分に在って柱間を渡す水平材)の入る見込みのある材が使用されており、本来、この門のものでは無かったとする向きもある。

このようにこの中門は時代を下りながら補修が繰り返され、従って往古の姿を求めることは困難とはされるも、想像をたくましくすれば、荒廃した後、門全体的に部材の入れ替えが実施され、現今に見られる形に改造したとも考えられる。

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