天龍寺別院塔頭「慈済院」
読み方
てんりゅうじ べついん たっちゅう じさいいん
建築年
1363年(南朝・正平18年/北朝・貞治2年)→寛永年間(1624~1645)焼失、移転
再建年
再建年不明→1792年(寛政4年)焼失
再再建年不明→文化年間(1804~1818)に焼失、さらに再建
1872年(明治5年)、同じく天龍寺塔頭の福寿院と合併し、現在の伽藍を復興
建築様式(造り)
建物:入母屋造
屋根:浅瓦葺
注目される仏像、御利益
- 開運出世大弁財尊天(別名:水摺福寿弁財尊天/みずずりふくじゅべんざいそんてん)
- 出世、芸術
参拝について
天龍寺開門時間内に参拝が可能です。
弁財天祠堂について、前に立ち参拝することはできますが、ご開帳は毎年2月3日のみとなっています。
天龍寺開門時間/8:30~17:30(10/21~3/20は8:30~17:00)
天龍寺塔頭の慈済院とは?
慈済院は、天龍寺にあまたある付属寺院、「塔頭(たっちゅう)」の1つです。
天龍寺の心臓部である法堂(はっとう)や方丈からは、2番目に近い塔頭となります。
ちなみに、1番近いのは当サイト「天龍寺別院塔頭「松厳寺(松岩寺)」」にてご紹介している、松厳寺(しょうげんじ)ですので、こちらもぜひチェックしてみてください。
慈済院は、松厳寺の隣に建っています。年中弁天堂の参拝が可能とあって、弁財天の御利益を求める人が比較的訪れる数の多い塔頭です。
ただ、弁財天がご開帳される2月3日の人出はこの比ではなく、あっという間に境内満員という人気ぶり。
慈済院の弁財天は、後ほど詳しくご紹介しますとおり、夢窓国師がみずから彫ったと言われる、いわくつきの弁財天です。
立身出世に御利益があるということで、どうしても2月3日に訪れる人も多いのが慈済院です。
慈済院はどこにあるの?地図で確認!
慈済院は、天龍寺を出て、庫裏の前の道をまっすぐに進み、松厳寺の入口を通り過ぎて左手にあります。
冒頭でご紹介した白い門が、慈済院の門です。門の右側に「水摺福寿大弁財天」と書かれた木札が立っています。
天龍寺は全体的に、純和風建築の建物が多いですが、この門に関しては中国様式(唐様)で、非常に特徴的なのですぐにわかります。
天龍寺七福神の1つ「弁財天」とは?
慈済院に祀られている「水摺福寿弁財尊天」は、七福神「弁財天」と同様です。
※画像は、慈済院の弁財天サマではありません!
7人(7柱)いる七福神の中で、唯一、女性の神様として知られています。
手には琵琶を持っていたり、芸術に関連するものを持っていることが多く、弁財天は芸術の女神として、芸能関係者からの信仰もあつい女神なのです。
弁財天の原点は、ヒンドゥー教の女神「サラスヴァティー」に見ることができますが、この女神がインド、中国社会で仏教に取り入れられ、さらに日本に渡り、同じくヒンドゥー教の女神「ラクシュミー」と同一視されるようになりました。
ラクシュミーは吉祥天と訳されています。吉祥天は、
- 父は徳叉迦(とくしゃか。八大龍王の1人)
- 母は鬼子母神
- 夫は毘沙門天
という「なっ……なんかスゲェ……」一族の女神。仏教の守護神としても大活躍する女神です。
そんな吉祥天と弁財天は、日本においては同一視され、芸術と財宝運の女神として七福神に名を連ねています。
つまり、七福神のうち、弁財天と毘沙門天はご夫婦という位置づけだったのですね♥ウフン
ところで、天龍寺七福神って何?
天龍寺の塔頭のうち、7つには、それぞれ七福神が祀られています。慈済院の弁財天もその1つです。
天龍寺七福神については、当サイト「天龍寺別院塔頭「松厳寺(松岩寺)」」にて、どこにどの七福神がいらっしゃるかをご紹介していますので、あわせてご参照ください!
知っておこう!天龍寺塔頭「慈済院」の歴史
開山開基は1363年、夢窓疎石の弟子による
慈済院の開山は、南北朝時代まっただ中の1363年。
天龍寺の開山を行った夢窓国師の直弟子の1人であった、無極志玄(むきょく・しげん。順徳天皇の曾孫。/生1282年~没1359年)が開山したと伝えられています。
無極志玄は、1346年(南朝・興国7年/北朝・貞和2年)に、夢窓疎石の後継者として、天龍寺の第2世を務めました。
実は無極志玄が慈済院を開山できたのは、夢窓疎石が彫り上げた弁財天を無極志玄に与え、これを祀った結果の御利益であると伝えられています。
慈済院の隣にある天龍寺塔頭の松厳寺の開基となった四辻善成も、順徳天皇の曾孫であり、無極志玄は四辻善成の兄にあたります。こう考えると、兄弟で協力して天龍寺をもり立ててきたことになりますね。
開山当初の慈済院は現在の場所ではなかった
慈済院は開山当初、現在の場所ではなく、京都市右京区に現存する斉明神社の南側に建っていました。
今の地図で見るとずいぶん遠いような印象ですが、過去には嵐山一帯が天龍寺の境内として扱われていたこともありますので、南北朝時代には当然のことだったのでしょう。
この社殿は、江戸時代、寛永年間(1624~1645)に焼失し、その後再建する時に、現在の場所に移転しました。
度重なる焼失!しかし禁門の変では焼失を免れる
冒頭でご紹介したとおり、慈済院は3度の焼失を経て現代に至ります。
しかし、天龍寺大火と言われる、禁門の変に伴う1864年(文久3年)の大火事では、慈済院は焼失を免れました。
そのため、慈済院の境内には、室町時代の建築が一部分残されています。
特にこの、入口の白壁の門の脇側(茶色の部分)には、土壁の中に瓦を塗り込める特徴的な建築様式が残っています。
ぜひ注目してみてください!
天龍寺塔頭「慈済院」の内部「山門・来福門・弁天堂・雲龍図」
慈済院には2つ門がある!「山門と来福門」
慈済院には、
- 山門
- 来福門
の2箇所、門があります。
この記事の冒頭から写真が紹介されている白い門は、実は「来福門」。
来福門の左側に、山門があります。
山門は少し入りづらい雰囲気がありますが、山門の周囲はさきほどご紹介した、古く貴重な建築様式となっていますので、注目したいところ。
慈済院の中に入るには、来福門を通りましょう。
慈済院「弁天堂」と「開運出世大弁財尊天」の由来
来福門を入ってすぐの場所に、御本尊である弁財天をお祀りする、弁天堂があります。
ご開帳は2月3日ですが、参拝はいつでも可能です。祭壇の中扉が閉ざされているため、御本尊を拝見することはできませんが、建物の内部は見ることができます。
実は注目度が高い、天井の雲龍図!
雲龍図といえば、天龍寺法堂の天井に描かれたものを思い浮かべる人が多いはずですが、慈済院の弁天堂の天井にも、見事な雲龍図が描かれており、コアなファンに注目されています。
日本画家の里見米菴(さとみ・べいあん/生1898年~没1993年)の手によって描かれたもので、大層見応えもありますので、ぜひ立ち寄ってご覧になってみてください。
霊験あらたか!夢窓疎石が彫った「開運出世大弁財尊天」
御本尊の「開運出世大弁財尊天」は、夢窓疎石が自ら彫り上げたと伝えられています。
それもただの彫刻ではありません!
「一刀参禮(いっとうさんらい)」という仏教的方法によって彫ったと言われています。
一刀参禮というのは、「1度、彫刻するたびに、3度、礼をする」(「禮」は「礼」の旧字)という手法です。
夢窓疎石は、一刀参禮を行うことで、この弁財天さまにググンと法力、信念を込められたのです。
来福門のご由緒にも、
天龍寺開山夢窓国師が霊感に依り 法力信念を込め一刀参禮を以って彫刻し
と明記されています。
言い伝えによれば、夢窓国師がこの弁財天を彫り上げ、弟子の無極志玄に賜わった……無極志玄はその頃、着の身着のまま鳴かず飛ばずの坊主でしたが、弁財天をあつく信仰し、やがて天龍寺の2代目となり、慈済院を開山するに至った、とのことです。
そのため、この弁財天様のご利益は、何をおいても立身出世であると言われています。
「水摺福寿弁財尊天」とは何のこと?
慈済院の弁財天は、「開運出世大弁財尊天」、または「水摺福寿弁財尊天」と仰います。
この「水摺福寿弁財尊天」という名称ですが、毎年の大祭の日に、香水で弁財天のお姿を写し、これを信者に配布したことから名付けられました。
弁財天の大祭の日とは、巳成金(みなるかね)と呼ばれる、9月の巳の日を表しています。
弁財天のお使いと言われるヘビ(巳)と、暦で吉凶判断に用いられる「十二直」のうち、「物事が成就する」の意味あいがある「成」。そして五行の「金」(詳説によれば二十八宿を五行に分けたうちの金)をあわせて、弁財天の大祭は「巳成金」と呼ばれています。
この日に、墨書きではなく、香水で書かれた弁財天の絵姿をお分けしていたので、「水摺福寿弁財尊天」の名前が通称になったということのようです。
慈済院の御朱印はもらえる?どこで?
慈済院では、書き置きの御朱印を通年で配布しています。
天龍寺の塔頭は、ほとんどが「中に入れない」「人が常駐していない」等、七福神がご開帳される節分の2月3日を除いて、非常に御朱印をいただきにくいのが現状です。
そんな中、慈済院では、弁天堂の奥にある庫裏で書き置きの御朱印を配布しています。
御朱印は、既に書かれたものが文箱の中に収められており、隣に置かれた箱にお金を入れる形式です。
つまり、慈済院の庫裏も人が常駐しているわけではありません。
御朱印も、日付が空欄になっていますので、ご自身で訪れた日を書き込んでおきましょう。
御朱印の金額は200円です。
天龍寺塔頭 慈済院 のお問い合わせ先
住所:京都市右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町66
TEL:075-861-0316