天龍寺別院塔頭「妙智院」
読み方
てんりゅうじ たっちゅう みょうちいん
創建年
1453年(→1864年焼失)
再建年
1877年
建築様式(造り)
建物:入母屋造
屋根:浅瓦葺
御本尊・その他仏像
- 釈迦牟尼仏(御本尊)
- 宝徳稲荷(天龍寺七福神めぐりのひとつ)
参拝について
- 拝観料:なし(※2018年6月現在)
- 開門時間;天龍寺の門内のため、天龍寺に準じる
- 宝徳稲荷・豆腐料理店「西山艸堂」以外の場所は非公開
天龍寺塔頭の妙智院とは?
境内でお豆腐をいただける天龍寺塔頭
天龍寺塔頭の「妙智院」は、天龍寺の門を入ってすぐ左手の、アクセスしやすい塔頭寺院です。
訪れるなら、天龍寺の参拝前に立ち寄るか、帰り際に立ち寄るのにおすすめの場所と言えるでしょう。
妙智院は、天龍寺七福神めぐりの内の1つ、「宝徳稲荷」が祀られていることで有名になっています。
天龍寺七福神は、毎年節分の日にご開帳と御札の授与がありますので、その日は他の塔頭も含め、大変混雑します。
一方で、その他の時期に関しては、入り口すぐの場所で注目されづらいことや、宝徳稲荷以外が非公開ということもあって、さほどの混雑はないようです。
妙智院の境内には、「西山艸堂(せいざんそうどう)」という小料理店があり、豆腐料理をいただくことができます。これについては詳しく後述致します。
妙智院の歴史!
妙智院を開山したのは、竺雲等連(じくうんとうれん。生1383年~没1471年)という臨済宗の僧です。
竺雲等連は、足利義政の師でもあった、天龍寺の太岳周崇(たいがくしゅうすう。生1345年~没1423年)に師事した僧です。太岳周崇のもとで修行した後は、応永年間(1394年~1427年の間)に明に渡って修行を積み、帰国後1453年(天文12年)に妙智院を開山しました。
妙智院の開山については、1452~1463年のいずれかという説もありますが、1453年という説が濃厚です。
この頃、妙智院の資金面は、堺の貿易商であった「雲栖軒奇峯道夏居士」が支えていたと言われています。
開山当初は現在の宝厳院の場所だった!
妙智院は、開山当初は現在の場所ではなく、現在、同じ天龍寺塔頭の「宝厳院」がある場所に建っていたと伝えられています。
奥まった場所が良好であったためか、妙智院は応仁の乱などでも焼失を免れ、江戸時代に入ってからも、この場所で一定の栄華を誇ることとなります。
1788年には、朱印地として91石1斗8升2合を与えられました。朱印地とは、年貢や課役が免除された寺社の領地のことです。これを証明するために幕府から発行されるのが、朱印状です。このことは『天龍寺末寺帳』に記録されています。
ところが、1864年になって、禁門の変に伴い、庫裏の一部を残して残念ながら、妙智院は焼失してしまいました。
塔頭「華蔵院」との合併と移転
1877年(明治10年)に妙智院は、再建にあたって、照翁妙誠が開基となった塔頭・華蔵院と合併することとなり、華蔵院のあった場所に移転しました。これが現在の妙智院の場所です。
その後、現在の天龍寺の広場に存在していた塔頭「禅昌院」との合併したほか、「宝徳院」「華蔵院」「逸休院」「禅昌院」「性智院」といった数ある塔頭が合併したとも伝えられています。
宝徳稲荷は室町時代に勧請されたもの
境内にお祀りされる宝徳稲荷に関しては、宝徳年間(1449年~1451年)に、伏見稲荷大社から勧請されました。
勧請を行ったのは、妙智院7世の中山法頴(ちゅうざんほうえい。生年不詳~没1363年)であったようです。こちらは焼失、移転より前のことなので、やはり妙智院焼失に伴って現在の地に移転したものと推測されます。
合併された塔頭「宝徳院」とは?
妙智院に合併されたと伝えられている塔頭、「宝徳院」は、後花園天皇と後小松天皇の追善供養のために建立された寺院であったようです。
妙智院の山門に、菊の御紋の彫刻が残されていますが、これは2天皇の追善供養を行った宝徳院の名残であると伝えられています。
天龍寺塔頭・妙智院の見どころ!境内の湯豆腐が気になる……
参拝可能な宝徳稲荷&非公開の家光弁財天
湯豆腐の前に、宝徳稲荷と弁財天についてご紹介しておきます。
妙智院の境内には、宝徳稲荷と弁財天という2柱の神様がお祀りされています。
宝徳稲荷につきましては先に触れたとおり、元々、妙智院で勧請され、お祀りされていたものです。
一方の家光弁財天は、旧宝徳院でお祀りしていたものを、妙智院との合併に伴って妙智院で管理することになったものです。
天龍寺七福神の中には、慈済院の水摺大弁財天がおられますので、こちらの家光弁財天に関しては天龍寺七福神には数えられていません。
宝徳稲荷は、2月3日に公開となりますが、家光弁財天社につきましては非公開となっています。
慈済院、水摺大弁財天につきましては当サイトの「天龍寺別院塔頭「慈済院」」もご参照ください。
絶対食べたいッ!嵯峨野で最古の湯豆腐店「西山艸堂」
「西山艸堂(せいざんそうどう)」は、嵯峨野で最古の湯豆腐店と言われているトウフ店、つまり英語で言いますと、Historic TOFU-restaurantです。妙智院の境内、最も東側(天龍寺寺門側)に位置しています。
経営は妙智院が担っていますが、ここで出される豆腐は妙智院で作られたものではなく、嵯峨の老舗豆腐店「森嘉」のものが使われています。
つまり、「森嘉」の豆腐を食べたいなら、参拝がてら妙智院を訪れるのが近道というわけなのです!
出されるメニューは湯豆腐定食、税抜3,000円の1種類のみ。
営業時間内に訪れれば、基本的に予約は不要ですが、とはいえ繁忙期には混雑して食べられないこともあります。桜や紅葉の時期などは予約してから訪れるのがおすすめ!
なお、「西山艸堂」の額字は、寧波の文人であった雲冠道人の手によることが伝えられています。後の項目でお伝えする、妙智院の僧であった策彦周良が、初めて明に渡った折に雲冠道人と交流し、書いてもらったものです。
西山艸堂の営業概要についてご案内します。
西山艸堂の営業時間・お問い合わせ先
- 住所:京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芦ノ馬場町63
- TEL:075-861-1609
- 営業時間;11:30~17:00
- 休業日:水曜 ※変更の可能性もありますのでご自身でご確認下さい。
妙智院の寺宝(非公開)
妙智院には、非公開ですが重要文化財の寺宝も複数ありますので、ご紹介ます。
- 夢窓国師画像
- 策彦周良和尚像
上の2つはどちらも重要文化財です。
夢窓国師画像については、無等周位(むとうしゅうい。生没年不詳。夢窓疎石の従者であったと伝えられる)が描いた、夢窓疎石の頂相(ちんぞう。禅僧の肖像画のこと)です。
頂相には、絵画と彫像の2種類がありますが、絵画として残された重要文化財の頂相は国内に3つしかなく、そのうちの1つがこの、夢窓国師画像です。
絵画には、夢窓国師の直筆の賛が入っているもので、天龍寺の2世であった無極志玄に贈られたと伝えられます。現在は、妙智院ではなく、奈良国立博物館に寄託されています。
もう1つ、策彦周良和尚像についてですが、「策彦周良(さくげんしゅうりょう。生1501年~没1579年)」は室町幕府の管領であった、細川氏の家老、井上宗信の三男であったと伝えられます。18歳で天龍寺にて出家、漢文・漢詩の達人でした。
1522年(大永2年)に、天龍寺の師であった等安が入寂(にゅうじゃく。僧が亡くなること)したため、妙智院の3世として後を継いでいます。
この策彦周良和尚像には、柯雨窓(か・うそう。明の画家)の賛が入っています。
策彦周良は、1539年~1541年に遣明副使として、また1547年~1550年に正使として、2度に渡って明を訪れ、『策彦和尚初渡集』『策彦和尚再渡集』の2つの文献を残しています。
渡明の折に、柯雨窓と策彦周良とは交流を持ったと考えられ、策彦周良が「柯雨窓画」なるものを一緒に持ち帰っている記録はありますが、現物がどれなのかはハッキリしておらず、策彦周良和尚像だけは賛が入っているため、柯雨窓の手による、あるいはゆかりの品であることがわかっています。
天龍寺塔頭 妙智院 のお問い合わせ先
- 住所:京都府京都市右京区嵯峨天龍寺芦ノ馬場町63
- TEL:075-861-0316