天龍寺 曹源池庭園の歴史(年表)を…..割り箸 割りながら知るつもりぃ❓

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曹源池庭園の簡単な歴史解説

室町時代に足利尊氏の発願により、禅僧・夢窓疎石の手により創建された天龍寺は「京都五山の第一寺」として位置付けられ以来、隆盛の波に乗ります。

天龍寺は、1339年(暦応2年)に開山し、1345年(康永4年)に落慶(境内全体の完成)を迎えました。

落慶に至るまでの経緯は「天龍寺のご本尊はどんな仏様?天龍寺の歴史について・由来など」に詳しく解説していますので、ぜひあわせてご参照ください。

創建当初の寺域は約950万平方メートルを誇り、これは現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なものでした。

敷地内には150余寺の子院が軒を連ね、洛中を凌ぐほどのまさに北山文化の象徴たるべき寺容を誇っていたのです。

しかしながら、隆盛は長く続くことはなく、たびたび火難に見舞われ、騒動にも巻き込まれるなど、徐々に創建当時の寺観は失われていき、やがて荒廃していくことになります。

現在の天龍寺の伽藍のほとんどは明治時代後半以降のもの!

現在の天龍寺伽藍のほとんどは明治時代後半以降に再建された姿です。

ただし、大方丈西側に位置する「曹源池庭園」は国の「特別名勝・史跡」に指定されている経緯から見ても理解できるように創建当初の面影を今に伝える唯一の資産と言えよぅ。ふぉっ、ふぉっ ..あんた誰や




曹源池庭園の歴史(年表)

できごと
834年~848年 嵯峨天皇の皇后橘嘉智子が開いた檀林寺(天龍寺の前身)が創建される
平安時代初期 荒廃していた檀林寺の場所に後嵯峨天皇とその皇子・亀山天皇が離宮を造営し、「亀山殿」と名前を付す。
暦応2年/延元4年(1339年) 足利尊氏、後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔うべく寺院を建立する。
名前を「天龍資聖禅寺」と付す。
康永4年(1345年) 後醍醐天皇七回忌に「天龍資聖禅寺」の落慶供養が営まれる。
延文3年(1358年) 火災により伽藍が焼失す。
貞治6年(1367年) 火災により伽藍が焼失す。
応安6年(1373年) 火災により伽藍が焼失す。
康暦2年(1380年) 火災により伽藍が焼失す。
文安4年(1447年) 火災により伽藍が焼失す。
応仁元年(1467年) 応仁の乱の類焼により伽藍が全焼す。
文禄5年(1596年) 慶長伏見地震にて伽藍の堂宇が倒壊す。
文化12年(1815年) 火災により伽藍が焼失す。
元治元年(1864年) 禁門の変(蛤御門の変)により、禅堂以外の伽藍が破壊される。
1900年(明治33年) 当代の管長・峨山禅師が禅堂を法堂兼仏殿として再建す。
1997年(平成9年) 加山又造により「雲龍図(八方睨みの龍)」が製作される。
1899年(明治32年) 庫裏が再建される。
1899年(明治32年) 大方丈が再建される。
1923年(大正12年)3月7日 国の「史跡名勝天然記念物」の指定を受ける
1924年(大正13年) 小方丈が再建される。
1934年(昭和9年) 当代の管長・関精拙老師により、多宝殿が造営される。
1955年(昭和年) 国の「特別名勝天然記念物」の指定を受ける
1957年(昭和32年) 物外道人(もつがい どうじん)筆により、東西を仕切る襖壁に雲龍の絵が描かれる。
1994年(平成6年 世界遺産に登録される。
平成12年(2000年)の秋 開山夢窓国師650年遠諱の記念事業が開始される。
中でも禅堂は耐震性を考慮した修復工事が実施される。

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