天龍寺「法堂」歴史(年表)や建築様式・特徴を….眉毛整毛しながら知るつもりぃ❓

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天龍寺「法堂」

読み方

てんりゅうじ はっとう .”ハっ!‥と”..驚く

建築年

不明。1864年(元治元年)、禁門の変(蛤御門の変)のため焼失

再建年

1899年(明治32年)

江戸時代後期建立の「雲居庵禅堂(選佛場)」(読み方:うんごあんぜんどう・せんぶつじょう)を移築し再建された

※選佛場とは、禅寺において座禅場という意味。

建築様式(造り)

建物:寄棟造

屋根:浅瓦葺

天井:鏡天井(平面的な板張り天井。禅宗建築に多い様式)

御本尊

釈迦三尊像

その他所蔵品

  • 光厳上皇ご位牌
  • 夢窓疎石像(木像)
  • 足利尊氏像(木像)
  • 雲龍図

読み方

「法堂」は「はっとう」と読みます。

法堂とは何をするところ?

言葉の意味としては「説法堂」という意味があります。

名前のとおり、住持(ご住職)が聴衆の皆さんに説法を行う場所が「法堂」です。

江戸時代後期は「選仏場」とも呼ばれ、これは坐禅を行う道場だった。(現在も「選仏場」と揮毫された額を掲げる)

天龍寺の法堂の歴史

天龍寺は禁門の変(蛤御門の変)で薩摩藩の兵火によって罹災し、境内の建造物のほとんどが焼亡に至った中、幸い焼け残った雲居庵(塔頭)の禅堂を当時の管長であった峨山禅師が1900年(明治33年)に法堂兼仏殿として現在地に移建した。

2000年(平成12年)の秋の開山夢窓国師650年遠諱の記念事業の一環で、さらに耐震性も考慮して修復された。これが現在見られる法堂の姿となる。




天龍寺の法堂の大きさや建築様式

五間四間、一重、寄棟造(よせむねづくり)、桟瓦葺(さんがわらぶき)を用いた比較的、新しい建築となる。

京都五山・第一座の寺格を有する天龍寺の仏殿ながら、一重(単層)の造りという稀有な建造物となる。

内部の床は甎敷き(せんじき)、天井は禅宗様の典型例とされる「鏡天井(平板を張り並べた天井)」を張る。

鏡天井に描かれた「雲龍図」

禅宗の仏堂では、上記、鏡天井に丸龍(がんりょう)、雲龍(うんりゅう)、もしくは天人や迦陵頻伽(かりょうびんが/人頭鳥身の美声の持ち主)や、鳳凰、楽器などを描く例が散見される。

もっぱら、この法堂の天井には雲に躍る龍が力強く描かれるが、この龍画は1899年(明治三十二年)に明治・大正時代の著名な画家「鈴木松年」の筆によるもの。

しクぁし!

1997年(平成九年)に版画家の加山又造(かやま またぞう)により新たに「雲龍図」が描かれた。

この雲龍図は「八方睨みの龍」とも呼ばれ、名前が意味するように四方八方いずれの方向から見ても龍に睨まれているような錯覚に陥ることから、この名が命名された。

禅寺の建造物は南面を正面とするのが決まり?

禅寺(禅宗寺院)の建造物の多くが南面、つまり建物の正面が南側に向いた形で建造される。

これは中国の「王者南面」の思想が伝来した後、それを踏襲し続けていることになる。うきゃ

古代日本においても中国の考え方を踏襲し、寺院に限らず御所などでも、地位の高い人は北極星のある北側に、南側を向いて座すのが通常だった。

禅院の多くも、この方式に則って、原則、正面を南面に向けてして建造される。

しクぁし!

天龍寺の法堂は東面を向く!

天龍寺の法堂は東面で建てられているのが大きな特徴の1つ。

同じ仏教でも、阿弥陀信仰の寺院などは極楽浄土のある西方を拝むため、正面を東に向けて建築される場合がある。

しかし天龍寺は禅宗寺院であるため、これには該当しない。

天龍寺の法堂が東向きの理由とは?

天龍寺の法堂がなぜ東向きなのか、その理由は未詳とされるも、移築時の条件等で向きが変わることもある。

天龍寺法堂を訪れた際は、向きも特徴の1つであると思い出して地図と照応してみるもの良ぃと思ふ。

法堂を写真撮影するなら午前中がオススメ💘

また東向きですので、法堂を写真に撮るなら、午後よりも午前中、早い時間帯のほうが、陰にならずおすすめです。

法堂の本尊は釈迦三尊像

法堂正面中央の須弥壇には釈迦三尊像(釈迦・文殊・普賢)を奉安し、後方の壇には達磨大師、夢窓疎石(開山)、足利尊氏(開基)、臨済禅師、百丈禅師らの尊像が奉祀されるなど、仏殿でもある。

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