「宝筐院」【旧 天龍寺山外塔頭】

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「宝筐院」【旧 天龍寺山外塔頭】

読み方

てんりゅうじ さんがい たっちゅう ほうきょういん

創建年

推定1073年~1087年頃(平安時代)

再建年

1917年

建築様式(造り)

建物:入母屋造

屋根:浅瓦葺

御本尊

  • 木造十一面千手観世音菩薩立像

参拝について


  • 拝観料:大人500円 小中学生:200円(※2018年6月現在)
    幼児無料(保護者同伴)
  • 開門時間;9:00~16:00(11月は~16:30)
  • 大型カメラ、中型カメラ、一脚、三脚の持ち込みは禁止されています。ご注意ください。小型カメラ、スマホでの個人的な撮影は許可されています。

天龍寺塔頭の宝筐院とは?

宝筐院は、天龍寺とは少し離れた嵯峨野の一角にある寺院です。室町・江戸期には天龍寺の山外塔頭寺院として存在していましたが、現在は、臨済宗の単立寺院となっています

詳しいアクセスは後ほどご紹介しますが、天龍寺から徒歩で訪れた場合、所要時間は15~20分ほどとなります。

宝筐院では、紅葉の景色が非常に有名です。嵯峨野の紅葉と言えば全体的に美しいものとして知られていますが、その名かでも宝筐院と、その周辺の景色は、紅葉好きならたまらないスポット。

宝筐院の周辺には、清涼寺、二尊院、落柿舎といった嵯峨の名だたる寺院・建造物が並んでおり、紅葉の季節の混雑でも、一緒に楽しみたいエリアです。

天龍寺より古い!宝筐院の歴史

白河天皇の勅願によって創建される

宝筐院が作られたのは意外にも天龍寺より古く、平安時代にまで遡ります。

創建年は推定1073年(延久4年)~1087年(応徳3年)頃。これは、白河天皇の在位期間に当たります。

宝筐院は、白河天皇の勅願(ちょくがん。天皇からの直接の祈願)によって創建された寺院で、創建当初は「善入寺(ぜんにゅうじ)」という名称でした。

白河天皇は晩年、白河上皇として政治を行ったことで有名ですが、善入寺の創建は勅願であったと伝えられているため、詳細な年代は判明していませんが、白河天皇の在位期間中のことであろうと推定されています。

この名残で、現在も宝筐院の山号は「善入山」と称しています。

その後、平安時代、鎌倉時代を通しては出家した皇族が住職を務める高級寺院として扱われました。しかしその後一度衰退します。


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黙庵周諭が中興開山す

善入寺は南北朝時代に入り、黙庵周諭(もくあんしゅうゆ。生1318年~没1373年)という人物が中興開山し、復興します。黙庵周諭の活躍により、善入寺は臨済宗の寺院として再び栄え始めたのです。

黙庵周諭は夢窓疎石の直弟子で、黙庵周諭の弟子には足利幕府の2代目将軍、足利義詮(あしかが・よしあきら。生1330年~没1367年)がいます。足利義詮は、1365年に母親が亡くなった折、その法要で黙庵周諭の話を聞き、心うたれて帰依したと伝えられています。

その後足利義詮は、善入寺の名を改めて観林寺としましたが、すぐに善入寺に戻したとも伝えられます。いずれにしても足利義詮が亡くなったのは帰依からわずか2年後の1367年で、その時には善入寺に葬られたと伝えられることから、「観林寺」の名称だった期間はごくわずかであったと推測されます。

黙庵周諭の弟子にはもう一人、楠木正行(くすのき・まさつら。生1326年?~没1348年)がいます。楠木正行は、有名な楠木正成の嫡男で、南朝に忠義を誓い、1348年に四條畷の戦いで、足利尊氏の家臣であった高師直(こうの・もろなお)に敗北し、討死しました。

黙庵周諭は楠木正行との親交あつく、四條畷の戦いが終わった後に正行の首級を、善入寺に葬ったと伝えられます。

これを受け、足利義詮は、「自分が逝去した後は、楠木正行の墓の横に葬るように」と遺言を残しました。

そのため現在でも、宝筐院の境内には、足利義詮と楠木正行、2人の墓が並んでいるのです。

墓の左右には燈籠が立ち、富岡鉄斎の文字で、右に「精忠」、左に「砕徳」とあります。

「精忠」は楠木正行の忠義を、「砕徳」は宿敵であった楠木正行の忠義を褒め称えた足利義詮の徳の高さ、しかしそれは義詮の徳全体を砕いたごく一部である(つまり、義詮はとても徳が高い!)という意味を示しています。

※左側は足利義詮の墓所。右側は楠木正行の首塚。
左側に足利家家紋である「二つ引両」、右側には楠木家家紋「菊水」を見てとれる。
敵同士であった2人は何百年もの間、隣同士で眠っているのである。

足利義政の時代に宝筐院と改称される

善入寺から宝筐院への改称を行ったのは、足利義政(あしかが・よしまさ。生1436年~没1490年。将軍在位1449年~1473年)であると伝えられています。

この代に、善入寺から、足利義詮の院号であった「宝筐院」に寺名の改称が行われました。

江戸末期から明治期にかけて衰退、からの~大正期の復興ッ!

室町時代から江戸時代にかけては、天龍寺の山外塔頭として重要視された宝筐院でしたが、江戸末期に衰退し、幕末にはあろうことか、廃寺となってしまいました。

廃寺になった理由については詳しく伝えられていません。

宝筐院にとって幸いだったのは、境内に先述した足利義詮と楠木正行の墓所があったことでした。

小楠公と呼ばれた楠木正行の御所が埋もれていることを惜しんだ、当時の京都府知事・北垣国道(きたがき くにみち。生1836年~没1916年。京都府知事在職1881年~1892年)が、楠木正行の首塚の由来を記して建てた「欽忠碑」が境内に残されています。

欽忠碑には、上にご紹介した、楠木正行が宝筐院に葬られることになったいきさつと、その隣に足利義詮が葬られたいきさつが詳しく漢文で述べられています。

欽忠碑の最後には「明治二十四年」と見てとれます。つまり1891年、北垣国道の京都府知事としての在職晩年のものです。

その後、1917年(大正6年)になり、天龍寺管長であった高木龍淵(たかぎ・りゅうえん)と、神戸の実業家であった川崎芳太郎(かわさき・よしたろう)らが宝筐院を再興しました。

川崎造船所(現川崎重工業)の副社長や神戸川崎銀行の頭取を歴任した川崎芳太郎の財力で、宝筐院の敷地を買い戻し、楠木家の家紋である菊水を屋根や軒瓦に掲げて、伽藍を再建しました。

再建が完了したのが1916年(大正5年)。その後、1917年(大正6年)に本堂を新築し、現在の姿となったのです。

紅葉の穴場として語られる

現代では、宝筐院は紅葉の穴場として人気を誇っています。

嵐山の中でも、中心部の天龍寺付近は、紅葉の季節には行列、行列でごった返しますが、宝筐院のあたりまで来ると、無人とはいきませんが人混みはだいぶ緩和され、紅葉も風流に眺めやすいのです。

嵐電嵐山駅からまっすぐアクセスすれば、徒歩15分ほどですので、是非訪れてみてはいかがでしょうか。

嵯峨嵐山駅から宝筐院へのアクセス

嵯峨嵐山駅から宝筐院へは、徒歩15分ほどで到着します。

嵯峨嵐山駅を出たら北上し、府道187号線に当たったら左折して3分ほど直進します。

間もなく歩道橋のある大きな交差点に出ますので、右折して府道29号線に入ります。

5分ほど直進し、右手に甘春堂嵯峨店のある交差点を左折すると、3分ほどで宝筐院に到着します。

天龍寺塔頭 宝筐院 のお問い合わせ先

住所:京都市右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1

TEL:075-861-0610

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