天龍寺のご本尊はどんな仏様?天龍寺の歴史について・由来など

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世界遺産「古都京都の文化財」の1つ、天龍寺の歴史を知っていますか?

天龍寺は世界遺産に登録される主な理由でもあった、夢窓国師によって作られた「曹源池庭園(そうげんちていえん)」が有名です。

しかしながら、天龍寺が天龍寺になる前に、嵐山の地に歴史があったことはそれほど知られていません。

今回は、天龍寺の歴史と由来、そして天龍寺のご本尊について知ってみましょう。

天龍寺の歴史と由来

天龍寺の前にあった!「檀林寺」時代

天龍寺の歴史を語るには、現在の天龍寺にかつて建っていたと伝えられる「檀林寺」のことをお話しなくてはなりません。

檀林寺(だんりんじ)は、嵯峨天皇の皇后であった檀林皇后(橘嘉智子・たちばなのかちこ。生786ー没850年。仁明天皇の母)によって建設されました。

唐から渡来した禅僧の義空(ぎくう。生没年不詳)が檀林寺を開山したのは、816年(弘仁6年)であったと伝えられています。京都で初の禅寺として仏教界で権勢を誇り、最盛期には塔頭(たっちゅう)が12坊と、当時の寺院の中でも格別に規模の大きいものでした。イラスト

「塔頭ゆうのは、禅寺において、寺の高僧に仕えた門徒の僧が、寺のそばや敷地内に建設した小さな寺院や塔、庵のことどすえ

檀林皇后は、嵯峨天皇の妻であったことはもちろんですが、さらに権勢を誇る背景がありました。

嵯峨天皇と檀林皇后の娘には正子内親王(淳和天皇皇后)がいたため、嵯峨天皇が淳和天皇に譲位すると、檀林皇后は皇太后として権力を持つことができたのです。

さらに、檀林寺が創建された後、承和年間(834年~848年)には息子の仁明天皇が天皇として即位していたので、檀林皇后は既に太皇太后の地位についていました。

檀林皇后の深い帰依と後ろ盾を得て、檀林寺は前例を見ないほど栄えましたが、嘉祥3年(850年)に檀林皇后が亡くなると、檀林寺の権勢は急速に衰え、平安時代中期(西暦900~1000年頃を指す)には檀林寺は廃絶となりました。

檀林寺の跡地は長いこと、天皇家が離宮として使用していた記録があります。

なお、檀林寺は1964年(昭和39年)に檀林皇后の遺徳を拝し、京都市右京区に再建されました。法的な位置づけは真言宗系の単立寺院ですが、実質的には寺院としてではなく、檀林皇后ゆかりの品、日中の仏教美術を収める宝物館「霊宝館」を擁する博物館となっています。

  • 住所:京都府京都市右京区嵯峨鳥居本小坂町2-10
  • アクセス:京福電車「嵐山」下車、徒歩20分。駐車場4台あり
  • 拝観料(一般):大人(高校生以上)400円、小中学生200円
  • 開館時間;9:00~16:45(拝観受付16:30まで)




天龍寺の開山と歴史

檀林寺が廃止された後、室町時代になってから、檀林寺の跡地には足利尊氏が天龍寺を建設しました。

ここには教科書にも出てくる歴史の動乱の深ぁいワケがありそうです。

 足利尊氏vs後醍醐天皇のトラブル

建武の新政で有名な後醍醐天皇ですが、そもそも建武の新政ってなんだっけ? と思い出してみましょう。

鎌倉幕府の滅亡に伴う後醍醐天皇の天皇直営政治のことを「建武の新政」と呼んでいます。

後醍醐天皇は、鎌倉時代末期の1318年(文保2年)に即位し、武士から天皇家に政権を取り戻すべく、1333年(元弘3年、または正慶2年とも言う)に鎌倉幕府を駆逐しました。

このとき、後醍醐天皇の先鋒となったのは足利高氏です。京都の六波羅探題(鎌倉幕府の京都監視機関)を足利高氏が落とす一方で、新田義貞が鎌倉攻めを行い、北条氏を滅ぼして、鎌倉幕府は滅亡しました。

実はこの裏には、後醍醐天皇が真言僧の文観(もんかん)に命じた、3年間にも及ぶ調伏祈願があったとも言われています。

これをもって、1333年から後醍醐天皇は建武の新政を開始したのですが、その前に既に、天皇家も後醍醐天皇派(後の南朝。いわゆる大覚寺統)と光厳天皇派(こうごんてんのう。後の北朝側。いわゆる持明院統)に分裂していました。

1318年(文保2年) 後醍醐天皇の践祚

1331年 光厳天皇の践祚(後ろ盾:鎌倉幕府)

1333年 後醍醐天皇が鎌倉幕府を駆逐し、光厳天皇を廃して建武の新政を開始

上のような流れであったため、1331年~1333年にかけては2人の天皇が擁立された形でしたが、一時的に後醍醐天皇が勝利し、天皇家も統一されたかに見えました。

1333年には、後醍醐天皇の諡(おくりな)である「尊治(たかはる)」から1文字をもらって、高氏は「尊氏」と改名しています。ウフ

しかし、ここから風向きが一変します。

1335年(建武2年) 中先代の乱(鎌倉幕府再興を目指した北条氏残党による乱)を足利尊氏が平定、そのまま鎌倉に留まって武家政権樹立を図るも、後醍醐天皇に敗北、尊氏は九州へ逃亡

1336年 足利尊氏が光厳上皇の院宣により京都を攻める。
後醍醐天皇、新田義貞、楠木正成が足利尊氏に敗北(湊川の戦い)。後醍醐天皇が叡山に逃亡。
利尊氏が光明天皇を擁立、光明天皇践祚。
後醍醐天皇は
吉野で南朝を開く

これをもって、建武の新政は終了し、いわゆる南北朝時代が始まります。

建武の新政によって、武士を廃して天皇中心の政治を作ろうとした結果、足利尊氏をはじめとする武士の不満が生じ、後醍醐天皇を排斥する動きに発展してしまいました。

足利尊氏は1338年(暦応元年)に、北朝の光明天皇から征夷大将軍に任じられ、室町幕府が正式に成立します。

最終的に後醍醐天皇は足利尊氏に裏切られた形となり、三種の神器を北朝方に奪われ、失意の中で1339年(延元4年)、52歳で天皇として崩御。生涯を閉じました。




 後醍醐天皇を祀るために天龍寺を建てる

かくのようなトラブル含みの関係だった、足利尊氏と後醍醐天皇ですが、後醍醐天皇の死後に至っては、その怨霊に怯える足利尊氏の姿が記録されています。

実際、後醍醐天皇は京都奪還に対するかなりの執念を持ったまま崩御したようで、その埋葬たるや、右手に法華経、左手に剣を持って、北向……つまり京都の方角を向いて、座ったままの姿勢で行われたと伝えられています。

そもそも後醍醐天皇というのは、3年も鎌倉幕府を滅ぼすように調伏祈祷を続けたような人でありますから、死後になってその怨念を恐れるのは、当時の人の感覚ではもはや普通の流れと言えるでしょう。

実際に『太平記』などを読むと、後醍醐天皇の怨霊のなせるわざとして、吉野の山から都へと飛んでゆく光る車輪、都での疫病の流行、足利直義(尊氏の弟)の病気等々、怪談話さながらのあれこれが記録されています。

最終的に、足利尊氏は当時、臨済宗の高僧として名高かった夢窓疎石にこの事態を相談し、後醍醐天皇の菩提をあつく弔うようアドバイスを受けます。

夢窓疎石は後醍醐天皇から、「夢窓国師」の号をいただくほどあつく信頼を寄せられており、そもそも足利尊氏とのつながりも後醍醐天皇の勅使として、尊氏が夢窓疎石のもとを訪れたのでした。

そんな経緯もあり、1339年(暦応2年)に、足利尊氏は後醍醐天皇の怨霊鎮めを目的の1つに、京都嵯峨野の地に夢窓疎石を開山に招き、天龍寺を開きました。

同様にこの頃から、足利尊氏は全国に安国寺の建設を進めていますが、安国寺もまた、目的の1つに後醍醐天皇の供養があったようです。

天龍寺に関しては、檀林寺の跡地で離宮「亀山殿」として使用していた場所を使うことと決めましたが、広大な敷地に豪勢な寺院を建設するには莫大な造営費用がかかります。

足利尊氏や光厳上皇も、私財である荘園を寄進して費用集めを行いましたが、理想の造営費用には不足していたため、元との貿易で不足分を補うことを考えました。

元との貿易は、元寇を機に途絶えていましたが、新たに天龍寺船を派遣して貿易を開始し、この収益で建設費用をまかなうことができました。

天龍寺の落慶は、1345年(康永4年)に、後醍醐天皇の7回忌法要を兼ねて盛大に行われたと伝えられています。このとき天龍寺は五山の第一位に位置づけられました。

 天龍寺の隆盛と縮小

落慶当時の天龍寺の境内(敷地)は、およそ100万平方メートルもある広大なものでした。これは東京ドームおよそ21個分の広さに当り、現在の嵐山、渡月橋、亀山公園なども全て境内におさまっていたのです。

ところが、落成後は度重なる火災に悩まされることになります。天龍寺が焼け落ちた大火災は、応仁の乱までだけでも、

  • 1358年(延文3年)
  • 1367年(貞治6年)
  • 1373年(応安6年)
  • 1380年(康暦2年)
  • 1447年(文安4年)
  • 1468年(応仁2年)

の6度に及びます。

1467年(応仁元年)に始まった応仁の乱は、1477年(文明9年)までの10年間に及び、天龍寺にも莫大な被害を及ぼしました。

1585年(天正13年)に、豊臣秀吉の寄進によって復興するも、1815年(文化12年)に火災焼失。

その後、再建を行いますが、1864年(元治元年)、再建途中だったにも関わらず蛤御門の変(禁門の変、元治の変とも呼ぶ)が起こり、長州軍があろうことか天龍寺を陣営に定めました。

長州軍の敗北にともなって、再建途中だった天龍寺は8度目の焼失の憂き目にあい、往時の姿は完全に見られなくなってしまったというわけです……。アーア

その後は徐々に復興を遂げ、1876年(明治9年)にようやく、臨済宗天龍寺派大本山としてひととおりの復興を完了します。

しかし、境内敷地に関しては、廃藩置県に伴って1877年(明治10年)に発令された上知令により、蔵王堂境内を除く嵐山、亀山、嵯峨の平坦エリアのほとんどを国有地として上地することとなりました。

現在の境内の広さはわずか30,000坪、東京ドームのおおよそ2.1倍と、その広さをおよそ10分の1に激減させています。




【重要文化財】天龍寺のご本尊「釈迦如来」とは?

天龍寺のご本尊は釈迦如来坐像です。

大方丈の中に安置されており、平安時代の作、木造の坐像で、像高は88.5cm。さきほど歴史で振り返ったとおり、室町時代の創建にあたる天龍寺そのものよりも、はるかに古いものであることが確認されています。

しかし像が作成された具体的な年代や、どのように作成された、あるいは伝わったものであるかは、すべて不明となっています。

釈迦如来と言われても若い日本人では余りピンとこないかもしれませんが、釈迦如来とは、「釈迦(仏陀、ゴータマ・シッダッタ・ブッダ)」その人のことです。いわゆる、「おしゃか様」ですね。

天龍寺の釈迦如来坐像は、右手で「待った」のような形の「施無畏印(せむいいん)」を結び、左手はかるく太ももに乗せて柔らかく広げ、「与願印(よがんいん)」を結んでいます。

「施無畏印」とは、「怖がらないでネ」という、相手の畏怖心を抑制するサイン(別に、「待った」ではありません)。

与願印のほうは、「お願い聞きますよ~なんでも言ってごらん」という優しいおしゃか様の御心をあらわしています(「カモン!」の形なんです)。

天龍寺 釈迦如来坐像 概要

  • 重要文化財
  • 作成:平安時代後期(年代不明)
  • 素材:檜材、寄木造。頭部と体幹部が一材彫出、耳の後ろから前後に割矧ぎ(わりはぎ)されている。膝前は別材。螺髪は彫出。彫眼、漆箔仕上げ(現状剥落)
  • 像高:88.5cm
  • 台座・光背:なし。過去にはあったものと思われる
  • 安置場所:大方丈

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