天龍寺別院塔頭「宝厳院」

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天龍寺別院塔頭「宝厳院」

読み方

てんりゅうじ べついん たっちゅう ほうごんいん

山号

大亀山(だいきざん)

創建年

1461年(→1467~1477年応仁の乱に伴い焼失)

再建年

1回目:1573年 ~ 1585年

2回目:1972年(明治時代に天龍寺の塔頭であった弘源寺の境内に間借りする形となる→2002年に移転)

3回目:2002年(現在の姿となる)

建築様式(造り)

建物:入母屋造

屋根:浅瓦葺

御本尊・その他仏像

  • 十一面観音(御本尊)
  • 観世音菩薩(33体)、地蔵菩薩
参拝について

  • 公開・参拝状況:平時は境内非公開。特別参拝期間中のみ参拝可能
  • 拝観料:
     庭園/大人500円、小中学生300円(※特別公開時のみ。本堂別)
    ※宝厳院・弘源寺割引共通券900円
     本堂/大人500円、小中学生300円(※特別公開時のみ。庭園別)
  • 開門時間:例)2018年秋の特別拝観の場合、9:00~17:00。
    受付終了は本堂16:30、庭園16:45。都度ご確認ください

天龍寺塔頭の宝厳院とは?

2002年(平成14年)にお目見えした新しい天龍寺塔頭

天龍寺塔頭の宝厳院は、2002年(平成14年)に作られた、比較的新しい建物が特徴的な天龍寺の塔頭(たっちゅう)寺院です。

塔頭寺院とは、いわば付属寺院のようなもので、天龍寺の塔頭と言えば天龍寺に所属・付随する小寺院のことを指しています。

さて宝厳院は新しい塔頭寺院であると申しましたが、それはあくまでも「建物が新しい」というだけで、宝厳院の歴史は1461年(寛正2年)からと大変長いものです。

1461年(寛正2年)は室町幕府の時代で、時の将軍は足利義政でした。

ではまず宝厳院の歴史からチェックしてみましょう。

宝厳院の歴史!

細川頼之の昭堂として1461年に創建

宝厳院の開山は、聖仲永光(せいちゅうえいこう)禅師(生没年不詳)です。聖仲永光は天龍寺三世法孫、つまり天龍寺の開山であった夢窓疎石の孫弟子にあたります。

開基は細川頼之(ほそかわよりゆき。生1329年~没1392年)であると伝えられています。

宝厳院の創建年は1461年ですので、開基となった細川頼之の死後にあたります。

これは、細川頼之の発願により、細川頼之の財力をもって宝厳院が創建されたものの、宝厳院が落慶した時には既に細川頼之は他界していた、と考えられるでしょう。

細川頼之という人物は、足利尊氏の家臣として付き従い戦功を上げた武将であったと伝えられています。

その後、2代目将軍の足利義詮が死去する際には、将軍じきじきに細川頼之を管領に命じ、室町幕府の第3代将軍となる足利義満を補佐するよう、事後を託しました。(足利義満は即位した時、わずか11歳でした。)

細川頼之の死後は、細川頼之が建設に力を注いだ宝厳院が、彼の昭堂(しょうどう。像を祀り菩提を弔う寺)となりました。

場所は現在と全く違うところだった!?

宝厳院が当初、建設された場所は、「上京区禅昌院町」であったと伝えられています。

このことは、江戸時代に記された『雍州府志』(ようしゅうふし)という書物に明記されています。

これは実は、現在の道を車で移動しても30分かかる距離。

しかし、当初は現在の京都御所の少し北側、京都市内のド真ん中に存在していた……とわかれば、宝厳院が度々移転せざるを得なかったわけも、わかるかもしれません。


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創建後わずか6年で応仁の乱に見舞われる

宝厳院にとって悲劇だったのは、創建後のわずか6年で応仁の乱が勃発したことです。

1467年(応仁元年)から1477年(文明9年)にかけて京都中の広い範囲を火の海にした応仁の乱の戦火は、宝厳院にも及び、この10年の間に焼失したと伝えられています。

天龍寺の境内には応仁の乱を逃れたものもゼロではありませんが、宝厳院は京都市内ド真ん中だったからこそ、丸焼けとなってしまい、具体的に焼失した年の記録すら残らなかった可能性が高いでしょう。

その後、豊臣秀吉がその財力をもって、1573年 ~ 1585年に再建したことがわかっていますが、明治時代に入り、河川工事を理由として、京都市街地ド真ん中の敷地が政府に買い上げられてしまい、宝厳院は移転することに。

この時、宝厳院が移転していた場所が、同じく天龍寺塔頭の「弘源寺(こうげんじ)」の境内の中です。

弘源寺も、現在なお塔頭として健在で、場所は天龍寺の御門を入ってすぐ右手。

宝厳院からは徒歩5分ほどの場所に位置しています。

ただやはり、宝厳院が廃れたわけではなかったため、いつかきちんと独立を……とは考えられていたのでしょう。

宝厳院が現在の曹源池庭園の南側の敷地を購入して寺院を再建し、2002年(平成14年)にあらためて、奥深い見どころを擁する天龍寺塔頭として再建の名乗りを上げました。

なお現在、宝厳院が建っている場所が、天龍寺塔頭の「妙智院」があった場所であるとも伝えられます。140年もの間非公開となっていた土地が、宝厳院が移転・整備したことで、季節を限定して公開されることになったのです。

妙智院については、当サイト

天龍寺別院塔頭「妙智院」

にて詳しく解説しておりますので、あわせてご覧ください。

宝厳院の見どころ!獅子吼の庭がベスト紅葉スポット!

通常、公開されていない宝厳院ですが、春と秋の特別参拝期間に、本堂と庭園が公開されます。

このうち、特に見どころとされているのが、回遊式庭園の「獅子吼の庭(ししくのにわ)」です。

紅葉のライトアップもある獅子吼の庭とは

獅子吼の庭は、宝厳院の庭園です。

夢窓疎石が作庭した天龍寺の庭園、曹源池庭園と同じく、回遊式の庭園で、嵐山を借景として背後に控える和風庭園の特徴を備えています。

さきほど少し、現在の宝厳院の場所には以前、天龍寺塔頭の妙智院があった……とお伝えしましたが、この妙智院の第三世であった策彦周良(さくげんしゅうりょう)が妙智院に作庭した庭園が、現在の宝厳院の庭園「獅子吼の庭」として残されています。

(このことは、江戸時代の庭園ガイド『都林泉名勝図会』(みやこりんせんめいしょうずえ)に、妙智院の庭園として掲載されています)

あらためてぜひ、当サイト妙智院についてのページもご覧になってみてください。

天龍寺別院塔頭「妙智院」

「獅子吼の庭」は新しく宝厳院が現在の地に開いてから名付けられた名前ですが、「獅子吼」とはそもそも、仏の説法が、獅子が吼(ほ)えるように心に響く……という意味のある仏教用語です。

獅子吼の庭の広さは12,000平米で、秋の特別公開時にはライトアップが行われ、紅葉の名所として人を集めています。

天龍寺では、紅葉のライトアップが行われていないため、嵐山の風流なライトアップされた紅葉を見たい! という志高い観光客が、夜間特別公開に殺到する形です。

もちろん混雑状況もかなりのものですが、公開時間が終盤にさしかかると人が減ってきますので、遅めの時間に行くと、比較的楽に紅葉のライトアップを楽しめるでしょう。

夜間ライトアップは、2018年の場合

  • 2018年11月9日~12月2日

の間です。

拝観時間は

  • 17:30~20:30閉門(受け付け終了…本堂20:00、庭園20:15)

となっています。

天龍寺の紅葉に関しては、当サイト

京都嵐山の秋満喫♪天龍寺の紅葉の見頃&混雑状況!ライトアップと撮影スポット【完全ガイド】

もあわせてご覧になってみてください。

天龍寺塔頭 宝厳院のお問い合わせ先、住所・電話番号

住所:右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町36

TEL:075-861-0091

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